昭和五十七年八月二十六日 朝の御理解


 御理解第七十九節
商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大      事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。


教祖様は、何事にも信心になれよと教えられておられます。何事にも信心になれよであ ります、ね。この事は信心になれるけれども、この事は信心になれないというような事では、一生懸命ということは一生命をかけるとありますよね。ま、大袈裟にいうなら命懸けその例えば今日の御理解、ま、商売人に対する御理解やろうと思えば出来る事なのだけ れもなかなか難しいですね。
拾銭のものは八銭で売れ売場買場を大切にせよと、ね。なかなかやろうと思えば出来る 事なのですけれどもね。人が拾銭儲かるとこは拾壱銭儲かりたいしね、売場買を大切にせよとおっしゃるにね。そりゃもう卸もとの方は、も叩いた上にも叩いてから買おうといったようなね。
だから、教祖のみ教えに準ずるというかみ教えを行ずるという事に、何事にも信心にな れとおっしゃるから商売人の人がね、それを本気で売場買場を大切にする。体はちびるものでないから、人が一時間働くなら一時間半も働こうと例えばいうようなその事が教祖様のみ教えを行ずることですからね。その、沢山売れるから得をするという事だけではなくて、教祖様のみ教えを行ずるからおかげになる。
売り場買場を大切にする。拾銭のものは八銭に売る。そりゃ弐銭目先は損なようだけれ ども数が売れるからその方が得じゃということではなくて、ね。それを実際に実験するから、教えを実験するから必ず実証が生れてくるのである。
教祖様の言葉をね、行ずるからおかげになるというおかげは、も限りないおかげにつな がるのです。
安う売ったけん売れたというだけじゃあないですね。親孝行せねばいけん、成程親孝行 すれば親が喜ぶね、それだけでも有難いけれども、教祖様が親孝行せよと、例えば教えられるから年寄りを大切にせよとおっしゃるからま年寄りを、教祖様の教えに従うということがね。ただ親が喜ぶというだけではなくてね、はあ自分はほんに年寄りを大切にしていなかった、親を大切にしていなかった。いわれてみるとそうだと、なら、お先祖を大切にする気になり、親を大切にする気になり教えを大切にする気になれば出来るのである。
だから、年寄りが喜ぶ、親が喜ぶ、先祖が喜ぶ、例えばいうだけでなくてね、それを行 ずるという事、それを教えを守るという事がこれはもう無限大のおかげにつながっていくのです。限りないおかげに、教祖様の教えに順ずるという事、教祖様がああ教えておられるから。
「信心するものは何事も信心になれよ」いうならば拝む事やら参る事やらという事だけ は信心になれるけれども、一歩自分の、なら私生活の方に入って行くとそのことは行じようと思えば行じられることでも行じない。そこから限りないおかげにいつまでもつながっていかない。
何事にも信心になれよ、私は今日のみ教えを頂いてそれを思うんです。やろうと思えば 出来る。けれども、やっぱり算盤を持つね商売人だから、これ一つでいくら儲かる。それを二銭儲かるとを、その二銭を、いわゆる十銭のものを八銭で売るという事はなかなか出来そうで出来ない。やろうと思えば出来る。教祖様がそう教えられるから、それを行ずる素直さがね、いうなら限りないおかげにつながっていくのです。
昨日は、合楽祭りであのように賑やかに段々こう垢抜した合楽祭りが出来るようになり ました。いかにも信心とは係りあいのないような感じですね。信心ちゃもう踊ったり跳ねたりするような事はもうあげんとは好きな者に任せとかなといったような人がある。出来る人がしない、やらない人があるね。
例えば、宮崎支部とか福山支部とか、あんな遠方からあれだけ沢山な人が、しかもあれ だけの事をやるためには、練習に日も使われたじゃろうと思います。ね。結局、何事にも信心になれよとおっしゃる、ああいういうなら合楽祭り的な、なら踊りやら歌やらというような中にでも、いわゆる信心になれとおっしゃる印ですからおかげ頂くです。
何事でも信心になれよ、だから中には例えば、伊万里支部の方達の中には、私、このご ろ目が薄いからわかりませんけれども、横に家内がおってから、あら、あれは津上のお婆ちゃんですよ。、若い人達と一緒の浴衣を着て踊られます。七十幾つでしょうかね、八十二なるでしょうか。それこそ小さい子供も年寄りも、もうそれこそ一つの雰囲気の中に溶け込んでね、心うれしゅう楽しゅうならああした御用が出けておられる。もう年寄りは、なかなか覚えが悪くなりますけれども若い者と一緒に、あのう難しいあちらのなんですかね、囃しなんかあれでしたか(伊万里音戸)。いわゆる津上のお婆ちゃんも一緒に、若い者と一緒に一つも間違えずにやっておられます。それなんですよ、何事にも信心になれよというのは。もう、あげたとはわけ者(若者)にまかせとかにゃ。やろうと思えば出来る何事にも信心になれよ。
もう亡くなられた久富先生が、まあだ外で合楽祭があっとった。もうあちらは、歌を歌 ったり踊ったりちゃ全然ふるふる好かん方です。浴衣だけは着て来るばってん、あげなもんには出らんち言うたから、私がえらいやかましく言うた事があります。出けてん出けんでん、ね、一緒にいうなら合楽音頭を踊る時には、間違うたっちゃよかけん出なさい。ちそれから出られるようになりました。初めて、生れて初めて踊りを踊った。どっか、足か腰が大変痛いち、言う事がありました。したら、その踊りば踊りよったらおかげでようなりました、ち、ね。
踊る事やら歌う事やら全然苦手である、けれども、私は久富先生に、何事にも信心にな れよと言われるんですから、ね、出けんからじゃなくて出けんからこそ一生懸命が出来るのです。まあ大袈裟に言うと出けん事を嫌いな事をやるから一生懸命、命を懸ける、ね。直らなかった足が直った、と言うようなおかげにも繋ってくる。私は、「何事にも信心になれよ」とはそういう事だと思うんです。
信心とは、拝む事やら参る事やら有難いお話し頂く事やらばかりじゃなくて、なら、合 楽祭的な、教会全体が和気靄々の中にああした催しがあるとあるという時にはです、ね。うちあたりの支部でも、何か稽古してから立ちましょうやというような、何かそこにこう心が一つになるという事だけでも素晴らしい事です。いやあ、私はあげな事は好かんと言わずに、好かんけれども、なら「何事にも信心になれよ」と言われるから、七十、八十のおばあさんまで参加されるというようなですね。それこそが一生懸命、だからその一生懸命が神様に通じるのです。
昨日、終ってから下がって神様に御礼申さして頂く時に、合楽祭も無事済んだことを御 礼申して頂きましたら『神様が一人一人に、あの大入り袋を渡しておられるところ』を頂いた。大入りと書いた袋がありましょ、いわゆる、私それを頂いて、なら今日の御理解、商売人にね、安く売れとか、売場買場を大事にせよとか、なかなか出来にくいもんです、ね。卸元を叩く、お客さんには要らん物でも押し付けて売る。売場買場を大切にしてないのです。その教えを、お商売ならお商売の上に表わすという事は、もう必ず繁盛に繋る。先だってから、冨久信会の時に加藤さんが発表しておられましたが、本当にまあ、合楽 理念に基く商売、おかげで繁盛のおかげを頂いておる。売場買場を大切にされる。卸もとの方から、いつも表彰を受けられたり、あの地区では一番という事でございますが、これは卸元の方を大事にされるからまた大切にされる。
私の方には従業員に申します。決して押し売りをするな、無理売りをするな。先だって も、息子さんがある修繕、電気の修繕においでられた。ところが、「あんたの所では買わんけれども、修繕だけはあなたがたにいつもお願いしよるばってん、もう、すぐ来て下さる。も、たいがいな電器屋ならば、もう修繕、これはも、古なっと、これは買い直しなさい、ち、えらいすすむる。ところが、あんたげん息子だけは全然、本当に気持ちよう修繕でんなんでんすぐ来てくれて、いつも修繕だけですすめるという事をしない。これからは、もう電気器具はあんた方に決めた。」と言われたという発表をしてました。ね。
修繕に行ってから、「もう替えなさい、もう替えた方がいいですよ」と言って無理にと いう事はしない。これは、私のとこの従業員一同の上にもそれを信条として、そうしております、と。
もう、まさに売場買場を大切にしておられる。だからあの繁盛がある。なかなか出来る こっちゃないです。商売人は、も、よい方へ商売根性を使えばいいけれども、よくない方へ、もう兎に角卸元から叩いたりして仕入れる。お客さんには、も、それこそ無理に嘘を言うてからでも押し売りをする。
成程、その時には売ったようであるけれども、その時には卸元を叩いて安う仕入れたよ うにあるけれども、ね。これは、秋永文男先生の場合でもそうです。ある卸売先のところで、もういくつもないというような、例えば、ま、よく売れて儲かる品物があると、これは、もう、梅屋の文男さんにあげようと言うてとっといて下さる。誰でもやらずに、文男先生に。これは、卸もとの人が話しをしておられる話を聞いたことがあります。
いかに卸元を大切にしておられるか。同じ売ってあげるならあそこに売ってあげよう、 と、言うことになる。それは、もう限りないおかげにつながるんです。それを店の信用、卸もとからも信用されるお得意様からも信用されるというふうに信用されるからおかげ頂くじゃなくて、教祖様がそうしろと教えられるからそうするのだというところに、もう限りないおかげにつながっていくのです。ね
ま、それを店の信用、卸元からも信用されるお得意先からも信用されるという生き方、 信用されるからおかげ頂くじゃなくて教祖様がそうせろと教えておられるからそうするのだというところに、もう限りないおかげにつながっていくのです、ね。
出来そうでなかなか出来ませんけれども、んなら合楽の信心もそうです。歌でん踊りで んふるふる好かんやった久富先生も、何事にも信心になれよと、ね、ま、自分ではもそれこそ生れて初めて踊り踊って足のけんも治った。嫌いな事でもそれに取り組む、何事にも信心になれというところにです、神様はその人一人一人に大入り袋を下さる。
それが、例えば商売をしよるなら自分の家に大入り袋のおかげ頂くという事につながっ てくるならどんなに素晴らしい、信心とは、参ったり、拝んだり、修行したりという事じゃなくて、そういうような何事にも信心になれよと言われるのですから、そこを一生懸命で嫌いなけれどもそれに参加する。そこには、神様の喜びが、なら、大入り袋となって一人一人にもというようなおかげにもなってくるのです。
商売人に対する御理解ですけれども、なかなか私自身商売させて頂いておって、これは 守れなかった、出来なかった。やろうと思わなかった、第一、拾銭の物は拾壱銭で売るのが商いが上手なように思っておった。今にして思うと、成程あれではお商売が繁盛しなかった筈だとこう思います。
けれども、合楽ではこのように、なら、教えて下さるのですから本気でやろうと思えば 出来るのですね。それにそっぽを向いてはならない。何事にも信心にならせて頂くと言う、いわゆる実意な信心が、または一生懸命な信心が大入り袋のおかげにつながるのですから、私も信心させて頂く者には何事にも信心になることにいよいよ心しなければならないと思うです。ね                                 どうぞ